多分最後
もう一つ、私の中でひっかかっていたことがあって、言語の壁と文化の壁、乗り越えるのにより力が要る(苦労する)のはどちらなのかということだったんだけど、
例えば適当に作った例を挙げると、
ある人は自分と全く生まれも育ちも違う環境で育った人だとして、その人が例えば行列に割り込んで最前列に並んだとする。また例えば何かイベントの帰りに自分たちの飲み食いしたものを、片付けが面倒くさいからと故意に散らかして帰ったとする。
決して良い行いとは言えないけれど、法律などで固く禁止されているわけでもない、個々人の良心にその判断が委ねられるような場合に差があるとき(自分としては許容できない行為だったとき)、それを自分の中でどう消化していくのかという問題。(他国ではとくに問題視されない(モラルという意識に上がってこない)事柄なのか、それとも個々人の良心に拠るところなのか、相手の行為をどこまで許容できるのか、または逆に相手にとって許容できない自分の行為(例えばその国のマナーのようなものを知らないでした行為)をどこまで許容してもらえるのかという問題)
こういうのは勿論その人個人に落とし込む良心であったりモラルであったり、もしくは国によって違ってくるものなのかもしれなかったり、もしくは良心やモラル関係なく、属するコミュニティーみんながやっている普通の行いかもしれなかったり、あるいは勿論良くないこと良いことの判断はあるけれどそれが意識として登ってくるものなのかとか、家庭での教育であったり学校での教育であったりとか色んなことを考えた。
面白かったのは、こういう問題意識というか規範の意識づけはどこで学んだっけと思って考えると、勿論家庭の中でもそうなのだけど、小学校の道徳の時間(他者や自分について考える時間)であることを思い出した。
この経験が、無意識的に規範意識やマナーやルールを守る意識に繋がったりするんだろうか。
その辺り気になってちょっと調べてみると、海外では道徳の時間はなくて、その代わりに宗教の時間があるらしい。日本でいう道徳のようなものは、家庭の中で育まれるらしい。とても面白い気づきだった。
この辺りの違いについても、バックグラウンドが違うことを知らなければ相手を誤解してしまう可能性もあったりして、気をつけないといけないことだなと思ったよ。勿論これも一つの例であってその他の要素きっと沢山あるからこの人はこうであるからこうだと、独断に走るのはいけない。結局どんな外的要因や外的環境があろうと、最終判断を行うのは個々人の意思だから
なんせ話さないとわからないことが沢山で、私の中では、言葉の壁よりも文化の壁の方がとても大きくて分厚いものに思えるんだけれど(多様性を認めてそのまま尊重するってとても素敵で開けているけれど、自分にそれだけの寛容さと準備がなければ時としてとてもハードワークなこともあるということ)、それを説明しうる言葉を獲得していれば、文化の壁も誤解を最小限に抑えて氷解していける気がする(文化の壁を乗り越える一助になる)。
向き合う対象とわかり合うために文化の違いを理解し合うことは必至でそれはとても大変なことだけれど、言葉でそれを取り除くことが一番しっくりくる。んだけれどそれを伝えうるだけの言葉をまだ習得していないのがつらい(結論)
日本に長年住んでいる海外の人と、海外に長年住んでいる日本の人にそれぞれ話伺ってみるの、とても有意義で興味深いだろうなと思う・・・ポテチ食べる
私は、言葉を学ぶ上で取りこぼしてはいけない共に生きている文化や思想とか、そういうものも尊重しつつ、でも自分の生きている文化も大切にしつつ良いバランスでいろんな人と接していく努力をしないとな(まだまだ発展途上)
言語文化と相互理解について(本編)
1つ前の記事の続き
話を戻して、旅人の彼との話が、より具体的なもの・センシティブなものの話題に移るにつれて、コミュニケーションの取り方、他者との関わり方や考え方の違いが顕在化してくることになる。
他者とのコミュニケーションの取り方で個体差はあれ日本人として特徴的なものは、相手と適度な距離感を保って話す、言葉に表れてこない微妙なニュアンスや心の機微を察する、直接的な言葉で表現しない(婉曲表現を好む)、阿吽の呼吸に表されるようにノンバーバル(ハイコンテクスト)な部分に頼っているということで、生まれも育ちも日本で日本語を話し日本人としての感覚を持ってる私はまさに、常日頃このコミュニケーションを取っていて、日本人の中の日本人だなと強く認識した瞬間でもあったんだけれど、一方で彼のコミュニケーションはその対極にあって、初対面でもオープンマインドで、腹を割って話す姿勢をよしとする、疑問に思うことは納得がいくまで尋ねる(「なぜ」そうしなければならないのか、「なぜ」そう思うのか、ちゃんと理解するためになぜと聞くことはとても大切だと言っていた)、直接的な表現を好む、個人の意見を大切にする、など。
国のバックグラウンドや他者と自分との関係性、良好な関係を作るためのアプローチとプロセス(たとえば単一民族国家であるのかそれとも多民族国家であるのか、その前提を踏まえて共通項の多い集団の中で和を尊重するための最適解はなんなのか、逆に多様性の中でどのように人と関わっていくのが他者理解に繋がるのか、など)の違いがこの差を生むんだと思うんだけど、それぞれその社会で大切にされているものなので必ずこれが正解というものはないから結局違いを違いのままに尊重して、ただ生まれてきたギャップを誠実に真摯に受け止めて理解する姿勢が大切だなと思った。そして良い意味で変化を受け入れていくこと。
違いがあるということを知ってしる、もしくは自分で相手の文化を理解するよう努力する(たとえばその分野での基本的な事前知識があれば、初めて出会う本でもなんとなくすんなり読める、みたいなそういうぼんやりとしたものでもいいからあったらその後に役に立つ知識、ただその情報は助けとなる1つの手段であって全て鵜呑みにせず、目の前のものを大事にすること)だけできっとするりといくこと多いのだろうなぁと思った。そして違いを話してトライアルアンドエラーを繰り返していくこと。たぶんこれがとても大事なんだな・・・
ただここでもう一つ思ったのが、柔軟に、ただ自分の核をなしている部分は時としてぶれてはだめだということで、例えば私は日本人で、生まれも育ちも言語も習慣も文化も違う人を前にした時に「海外の人は◯◯」という先入観を持って接すると自分の中の他者とのボーダーが見えなくなってしまうのはとても気をつけなければいけないことだと思ったりした。
知らない文化や国というのは完全に理解するというのは難しくて、知らない・わからない部分は結局想像や推し量る形で自分の中で処理してしまったり流されてしまいがちだけど、自分の中で芯になっている部分も、他者と同じくらい重きをおかないとねと。
細々と片手間程度に英語を勉強して、本腰を入れて向き合うようになったのはここ最近のことなんだけど、言葉に表れない気持ちや日本語と英語の間にあるニュアンスの違いってとても沢山あってその度に伝わらない・相手の意図がわからない虚しさや孤独みたいなものを感じることがあるし、ちゃんと向き合うと決めてから、母語がいかに私の気持ちにしっくりくるか、またはっきりということのできない微妙なニュアンスや日本語の美しさみたいなものも大切にしたいなと強く思うようになった。
自分が考えていることを英語に認める作業はとても大変で限界があるし今の私にはとても遠い道のり・・・
言語や言葉はその国や暮らしや文化や歴史と一緒に生きているし、そこを外してそれだけを学ぶことってとてもできないなと思う。
コンビニや街中で働いている沢山の海外の人がいて、その人たちを見かけるたびに、言葉も文化も違う国で頑張っている姿を見ると、言語習得にも文化に慣れること、殊に全く違う文化を受け入れて自分の中で消化し暮らしていくってとてつもないパワーと根気と努力が必要なんだろうなと思う・・・
理解するって、言葉の中に背負いきれないほど色んな感情や熱が加わった言葉だな、自分のことさえままならないときあるからね。
言語文化と相互理解について(前置き)
言語文化とその違いから生まれる相互理解の在り方について、私の中の考えを問い直し深化させるような出来事があったので記録しておきたい。
最近ひょんなことから1人の外国人と知り合った。その人は1年半前に祖国を出て、東回りで巡廻し、生まれ育った国を目指して旅している(地球を一周している)とのこと。
また興味深いのが、空路を一切使わず、バスキングとヒッチハイクのみで旅をしていた。(街中でバスキングをしているところで出会った)
彼の国を以前訪れたことがあり話が弾み、色んな話をした。(色々な話をしたけどこの時点では広く表面的な話)
その中で彼は、
「色んな国を見てきたけど日本人はなんというか何を考えているのかがわからない。言葉ではこう言っているけれど、本心はそれとは全く違うところにあるような気がする。曖昧さを好み、明断を避けたがる。日本に来てから自分だけ浮いてる気がする、息苦しい。」
「話しかけても返事があまり返ってこない。バスキングをしていても足を止める人も少なく、みんなどこか忙しそうで余裕がない。まるでロボットみたい。」と言った。
前者のくだりはこの記録のメインテーマになるのでまた後述する。
バスキングに関しては、芸術や文化といったものが常に生活の中に根付いている欧米との違いかなと思う。あと場所がビジネス街だったので、そういうことかなぁ。
あととてもすごいなぁと思ったのは、彼は英語が母国語ではないのに不自由することなく英語が堪能なこと。母国語と英語以外にも、歴史的背景から少なくともロシア語も話せるんだろうなと推す。(スロバキア・クロアチア・スロベニア語あたりも感覚近ければ話せるのかもしれない)
以前リトアニアに行った時に出会った10代の少年も英語がとても堪能で、母国語ではない言語をどうやって会得したのか尋ねると「だって学校で学ぶでしょう?」だった。
非英語圏の国の人が英語を学ぶときはどんなアプローチをするのかただただ気になった。
同じ時間、もしくはそれよりも少ない時間で過不足なく意思疎通を取る彼は、どんな学び方をしてるんだろう?学校はどんな教育を行ってるんだろう。
母国語と他言語2つ3つ当たり前でマルチリンガルな人が沢山いるのも普通だったりして、そういった人々のバックボーンもかなり気になる。
もちろん地理的歴史的文化的政治的といった外的環境の要素って多分とても大きくて、陸続きで色んな国との目に見えるもの見えないものの交流がある、自分とは違うところにルーツを持つ人が沢山いる、他国の社会情勢や問題が自国の経済に大きく影響する、というのは「他言語を学ぶ・自分と違う国をルーツに持つ人との相互理解」においては、とても大きな原動力になったり言語を習得するハードルを限りなく下げてくれる気がする。
比べて日本は街中で海外の人を見かけることがあるけれど単一民族国家で、海外の人に慣れていない・英語を話せなくても日本語を話すことができれば生活に困る場面に遭遇しない。
海外から来た人になるべく親切にしたい・なるべく楽しく過ごしてほしいと思う気持ちがある反面、それを日本語以外で表現するとなると途端に難しくなってまうので、そこから誤解が生まれてしまう部分(レスポンスがないというのも、不親切にしたいわけではなくて単に表現する方法がわからなかったり慣れない状況に困惑してしまったり)が一番大きな理由なんじゃないかと思う。
記事分けて書くのめんどくさいので一気に書き上げようと思ったけど一気に書き上げるのめんどくさくなってしまったので一旦休憩してまた次の記事で書くことにする(休憩が多い)
導入
暮らしの中で思ったことや考えたことを、ただつらつらとまとめていくだけの記録。