natsumiudonの日記

徒然なるままに

言語文化と相互理解について(本編)

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話を戻して、旅人の彼との話が、より具体的なもの・センシティブなものの話題に移るにつれて、コミュニケーションの取り方、他者との関わり方や考え方の違いが顕在化してくることになる。

 

他者とのコミュニケーションの取り方で個体差はあれ日本人として特徴的なものは、相手と適度な距離感を保って話す、言葉に表れてこない微妙なニュアンスや心の機微を察する、直接的な言葉で表現しない(婉曲表現を好む)、阿吽の呼吸に表されるようにノンバーバル(ハイコンテクスト)な部分に頼っているということで、生まれも育ちも日本で日本語を話し日本人としての感覚を持ってる私はまさに、常日頃このコミュニケーションを取っていて、日本人の中の日本人だなと強く認識した瞬間でもあったんだけれど、一方で彼のコミュニケーションはその対極にあって、初対面でもオープンマインドで、腹を割って話す姿勢をよしとする、疑問に思うことは納得がいくまで尋ねる(「なぜ」そうしなければならないのか、「なぜ」そう思うのか、ちゃんと理解するためになぜと聞くことはとても大切だと言っていた)、直接的な表現を好む、個人の意見を大切にする、など。

 

 

国のバックグラウンドや他者と自分との関係性、良好な関係を作るためのアプローチとプロセス(たとえば単一民族国家であるのかそれとも多民族国家であるのか、その前提を踏まえて共通項の多い集団の中で和を尊重するための最適解はなんなのか、逆に多様性の中でどのように人と関わっていくのが他者理解に繋がるのか、など)の違いがこの差を生むんだと思うんだけど、それぞれその社会で大切にされているものなので必ずこれが正解というものはないから結局違いを違いのままに尊重して、ただ生まれてきたギャップを誠実に真摯に受け止めて理解する姿勢が大切だなと思った。そして良い意味で変化を受け入れていくこと。

 

違いがあるということを知ってしる、もしくは自分で相手の文化を理解するよう努力する(たとえばその分野での基本的な事前知識があれば、初めて出会う本でもなんとなくすんなり読める、みたいなそういうぼんやりとしたものでもいいからあったらその後に役に立つ知識、ただその情報は助けとなる1つの手段であって全て鵜呑みにせず、目の前のものを大事にすること)だけできっとするりといくこと多いのだろうなぁと思った。そして違いを話してトライアルアンドエラーを繰り返していくこと。たぶんこれがとても大事なんだな・・・

 

ただここでもう一つ思ったのが、柔軟に、ただ自分の核をなしている部分は時としてぶれてはだめだということで、例えば私は日本人で、生まれも育ちも言語も習慣も文化も違う人を前にした時に「海外の人は◯◯」という先入観を持って接すると自分の中の他者とのボーダーが見えなくなってしまうのはとても気をつけなければいけないことだと思ったりした。

知らない文化や国というのは完全に理解するというのは難しくて、知らない・わからない部分は結局想像や推し量る形で自分の中で処理してしまったり流されてしまいがちだけど、自分の中で芯になっている部分も、他者と同じくらい重きをおかないとねと。

 

細々と片手間程度に英語を勉強して、本腰を入れて向き合うようになったのはここ最近のことなんだけど、言葉に表れない気持ちや日本語と英語の間にあるニュアンスの違いってとても沢山あってその度に伝わらない・相手の意図がわからない虚しさや孤独みたいなものを感じることがあるし、ちゃんと向き合うと決めてから、母語がいかに私の気持ちにしっくりくるか、またはっきりということのできない微妙なニュアンスや日本語の美しさみたいなものも大切にしたいなと強く思うようになった。

 

自分が考えていることを英語に認める作業はとても大変で限界があるし今の私にはとても遠い道のり・・・

 

言語や言葉はその国や暮らしや文化や歴史と一緒に生きているし、そこを外してそれだけを学ぶことってとてもできないなと思う。

 

コンビニや街中で働いている沢山の海外の人がいて、その人たちを見かけるたびに、言葉も文化も違う国で頑張っている姿を見ると、言語習得にも文化に慣れること、殊に全く違う文化を受け入れて自分の中で消化し暮らしていくってとてつもないパワーと根気と努力が必要なんだろうなと思う・・・

 

理解するって、言葉の中に背負いきれないほど色んな感情や熱が加わった言葉だな、自分のことさえままならないときあるからね。